自分は違うという思い込み
- 「自分はこうではない」と思う時、その「こう」な部分は間違いなく自分の一部分である。今日はこんな一文から考察をしてみたい。自分はこういう人たちとは違う。社会生活を営む以上、私たちにはそう思いたい時や、そう思わざるを得ない時が多々ある。時に私たちは同質な中でさえも、そこに他人との差異を作り出そうとすることがある。しかし、そう思った瞬間に自分自身とその「他人」との間に境界線が引かれてしまう。いったん境界線が引かれると、その状態が前提となってしまい、なかなかその境界線自体を意識することは難しくなってしまう。こちら側の考えとあっち側の考えは違う、あっち側の考え方など分かるわけがないーこうして社会の間に深い溝が出来上がる。いったん溝が出来上がると、溝が存在することが前提となり、そもそもなぜ溝ができたのかということは忘れ去られる。
- 私たちはこうして自分と他人の間にいつのまにか線を引き、そのちょっとした線はやがて社会を分断する溝となってしまう。では境界線を引かないようにすればいいのだろうか?そこでまずは「群衆心理」*1(Gustave Le Bon,1895 櫻井, 1993)を見てみよう。
群衆心理
- ギュスターヴ・ル・ボンは1841年、フランス生まれである。当時のフランスは1789年に勃発したフランス革命後、恐怖政治、ナポレオン1世による帝政と対外侵略、王政復古、共和制、帝政の復活といった大事件と政治体制の転覆が半世紀の間に何度も繰り広げられた激動の時期である。フランス史において群衆が初めて一国の政治舞台に躍り出た時代を背景に、ル・ボンは群衆として団結した人々の心理状態が1人の個人としての心理状態と大きく異なっていることを感じたのだろう。「群衆心理」では、その特徴が次のように描かれている。
意識的個性の消滅、無意識的個性の優勢、暗示と感染とによる感情や観念の同一方向への転換、暗示された観念をただちに行為に移そうとする傾向、これらが、群衆中の個人の主要な特性である。群衆中の個人は、もはや彼自身ではなく、自分の意志をもって自分を導く力のなくなった一箇の自動人形となる。
(ギュスターヴ・ル・ボン. 群衆心理 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.346-349). Kindle 版. )
- ル・ボンは群衆心理にこのような特徴を見出し、群衆に働きかける指導者がとるべき方策として断言、反復、感染をあげた。断言とは根拠や論証を伴わずにある事柄を簡潔にわかりやすい表現で「言い切る」ことだという。言い切ることで余計なことを考えずにすみ、群衆の精神にある思想を沁み込ませる手段となる。そして断言は何度も何度も繰り返すことにより、より一層強固に群衆の心理に定着し、影響力を持つという。そうして固定化された思想は論証済みの真理であるかのように扱われる。そして、ある一定の心理的な下地ができているとき、その思想は広範囲にその思想を伝播させることができる。
- また、ル・ボンはその心理をよく理解し、うまく利用して政権に躍り出た人物としてマクシミリアン・ロベスピエールをあげている。ロベスピエールは幼くして母親を亡くし、弁護士業を営んでいた父親には家族を捨てられた身からのスタートである。当時のフランスは大きく聖職者、貴族、平民の3区分に分かれており、ロベスピエールは平民の代表としてフランス革命直前の最後の三部会に加わった。ロベスピエール自身も弁護士であり、また平民として群衆の心理をよく理解していたためか、弁論や民衆の前での演説ではその場を支配することに非常に長けた人物だったようだ。これが後に彼を革命の表舞台に引き上げた大きな要因になったと思われる。
- つまり、ロベスピエールは自分自身の中に「群衆としての自分」が存在することをよく理解していたのだろうと思われる。
- 次に、我が国の激動の時代はどうだっただろうか。「空気の研究」(山本七平, 1983)を見てみよう。
空気の研究
- 山本七平氏は「空気の研究」*2(1983)において、第二次世界大戦に日本が突入していった時代の内情を詳しく見ながら、その独特の意思決定プロセスに「空気」が深く関与しているという分析を行なった。論理的な意思決定ができる状態にありながら合理的な選択をせず、事後的に決断の根拠を問うても「あの時はそうするしかなかった」「(対立する意見を)言えるような空気ではなかった」という見解が出てくるのみだというのである。空気とはある種の前提のようなもので、その前提を受け入れないものに対しては排除の圧力がかかる。こうして誰も反対できない雰囲気が生じ、「空気による支配」が完成する。戦艦大和は誰の目にも無謀が明らかな沖縄戦に特攻し、撃沈されたが、その意思決定はそうした空気の支配によるものだったというのだ。
- ここで、空気の研究についての解説を行なった別の書籍「「超」入門空気の研究ー日本人の思考と行動を支配する27の見えない圧力」*3(鈴木博毅, 2018)によると、空気支配が完成するまでのプロセスとして
- 絶対悪・絶対善の設定
- 臨在感的な把握
- 感情移入を絶対化する
- 空気が人々を支配する
- このステップを見てなにか思いつかないだろうか。さきほどのル・ボンの「群衆心理」において、群衆への働きかけ方として「断言、反復、感染」をあげていたのだが、まさにこの3つの働きかけと同じようなことを上記の4ステップが言っていると解釈できないだろうか。つまり、人が集まったときの個人の心理の変容と集団心理の特徴について考察したル・ボンと日本社会に根付いている空気について考察した山本七平氏とは、同じことを別の角度から述べていると考えることができる。「あの時はああするしかなかった」のような、一種の受動態を伴う違和感のある表現ー自分たちに意思決定権はなかった、他に選択を選べる余地はなかったのだという表明は、それに呼応する何らかの「主体」が存在していたことを主張しているのと同じことである。
- 山本氏は、その主体とは何かを追及した結果、「空気」という一つの答えに辿り着いたのだろう。空気という「主体」によって支配されやすいという私たち日本人の特質をあげつつ、空気の支配に気づき、そこから抜け出す努力をするべきだというのが山本氏の意見なのだろう。(次回に続く)
*1 Gustave Le Bon(1895), La psychologie des foules(ギュスターヴ・ル・ボン 櫻井成夫[訳](1993).『群衆心理』 講談社)
*2 山本七平(1983), 『空気の研究』, 文藝春秋
*3 鈴木博毅(2018),「「超」入門空気の研究ー日本人の思考と行動を支配する27の見えない圧力」, ダイヤモンド社