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アイデアの価値について考えてみよう

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アイデアに価値はない

  • アイデアに価値はない。これはよく言われていることだ。全くその通りだ。どんだけ一生懸命考えて捻り出したアイデアであっても、それを形にして実現させなければ何の意味もない。何かいいアイデアを思いついたとしても、インターネットが普及したこの時代、いくらでも同じようなアイデアを考えている人はいるのである。そのような時代だからこそ、アイデアを思いつくだけで満足していてはいけないということなのだろう。しかし、本当に価値はないのだろうか?アイデアがなければその後の展開もないはずである。にもかかわらずなぜここまで軽視されるのか?考えただけでは価値がないというのであれば、いわゆるリベラルアーツはどうなるのか?アイデアに価値はないと言われる時の文脈から少し離れてみて、言葉の意味を考えてみることでもう少しこの発言のもつ意味合いを立体的に捉えることができるかもしれない。そこでまずはリベラルアーツの世界を覗いてみよう。
  • リベラルアーツとは、古代ギリシャ・ローマ時代に源流を持つ実践的な知識や学問の基本になる自由7科を指す。自由7科とは、文法学・修辞学・論理学の3学(これらを3学という)および算術・幾何・天文学・音楽の4科のことである。これらの科目は例えば戦争に出て剣を振る能力でもなく、土地を耕す技術のことでもない。これらは日常生活に必要な知恵・知識であり、リベラルアーツは直ちに実用につながるような学問ではない。奴隷制が敷かれている中で自由な時間を持っていた古代ギリシャ市民の学問だったのだ。これらを学んだところで土地を耕すことはできない。つまり「学んだだけでは耕せない」という構図であり、上記の「考えただけでは価値がない」と同様の構図になっているように思える。では何が異なるのであろうか?

リベラルアーツと「考えただけでは価値がない」の関係

  • 「知覚力を磨くー絵画を観察するように世界を観る技法」(神田房枝, ダイヤモンド社, 2020)によると、まず知的生産には3つのステージがあるという。それらは、
    1. 知覚
    2. 思考
    3. 実行
    である。リベラルアーツの3学は、これらに対応しているというのだ。つまり「知覚」に対しては文字列の中から共通点や法則を見出す「文法学」が、「思考」に対しては「論理学」が、「実行」に対しては「修辞学」がそれぞれ対応している。リベラルアーツは知覚を起点とした人間の知的生産プロセスに沿った学問だったというのである。つまり、「考えただけで(実行に移さなければ)価値がない」という見解が前提としている知覚、思考、実行の全てのステップにわたる基礎を提供するものだという位置付けであると理解できる。インプットーアウトプットの関係で言うとリベラルアーツはインプット、「(アイデアを)考えただけで(実行に移さないければ)価値がない」という見解は「アイデアの具現化」というアウトプットのフェーズで語られる文脈だと考えられる。アウトプットの段階に来ているという前提があるからこそ、目に見える成果がなければ意味がないという価値観につながるのだろう。
  • 以上から、「アイデアに価値はない」という考えがインプットとしてのリベラルアーツ自体を否定しているわけではないことが分かった。アイデアはリベラルアーツなどを駆使して生み出すべきアウトプットなのだ。それが考えだけで終わっていては意味がないという文脈で整理される。次に、アウトプットとしてのプロセス、つまりアイデアから実行に至る中身を見てみよう。

アイデアと実行の関係

  • 「アイデア自体は良いのだけれども実行に移すのは難しい」と言うようなことを仕事場などで耳にしたことがある人は多いのではないだろうか。あるいは改善提案をしたところ、上司からそのような回答をもらってガッカリしたような経験だ。こうした言説が流布されている背景には、「実行段階のハードルの方が遥かにアイデアそのものを思いつくハードルよりも高い」という前提が存在している。それはそうだろう。スマホを触ればいくらでも答えが探せる時代、どうするべきかで悩んでいる人は実は意外と少ないのかもしれない。むしろそれは分かっていながら現状の自分からどうやってその段階にシフトすれば良いのかがわからないと言う人の方が多いのではないだろうか。
  • 確かに実行段階では様々なハードルが行手に立ちはだかる。規制や法律の問題、人の問題、資金の問題、政治の問題、、、これらが複雑に絡み合ってスタックしているのが現状である。仮にいいアイデアがあったとしても、これらの重層的に絡み合った問題の中で次第にアイデアを実行に移す推進力はこららの摩擦にさらされ、いずれ停止させられてしまう。
  • しかし仮にアイデアよりも実行に価値があるということの正当性が上記のような(実行段階における)ハードルの偏在性に依存しているというのであれば、アイデアの価値は相対的なものになる。つまり実行の方がハードルの数が多いから実行の方が価値が高く、アイデアのみでは価値が低いということだ。このことは逆にアイデアの発想のハードルが高く、実行のハードルが低いのであればアイデアの価値は高くなる、と言っているのと同じだ。
  • 例えば2012年、数学界で30年近く誰も解けなかった「ABC予想」問題が、京都大学教授の望月新一氏により公表された論文によって証明された。厳密にはこの論文は数学界で精査中とのことだが、望月氏が証明の中で用いたのは「宇宙際タイヒミュラー理論」という数学者でも理解することが困難なほどの独自性の強いツールだった。望月氏は研究者の立場であるため、アイデアの実行とは論文を発表し、自説が正しいことを世間にアピールすることと言えるだろう。アイデアそのものは「宇宙際タイヒミュラー理論」を構築したことが該当するだろう。この場合は明らかにアイデアに価値があると考えられる。論文として発表すること(=実行フェーズ)は相対的に難しくないからだ。
  • 発表自体のハードルが低い世界で、誰も「思いついただけでは価値はないよ」とは言わないのではないだろうか。発表すること自体は、場所や方法を無視すればインターネットが普及している現代において誰でもできてしまうわけであり、解けるか解けないかだけが問題だからだ。
  • 以上から明らかなように、アイデアと実行の関係は、どちらかが絶対的な価値を優位に持っているわけではなく、あくまで相対的な困難さを前提としてどちらかが価値がある、ない、と言われているにすぎないと解釈できる。(次回に続く)

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