「経験から学ぶ」は本当か?
- コロナ禍の中、新年度がスタートして多くの会社は入社式を様々な形で執り行った。新入社員は大変な時期に入社1年目を迎えるわけで、これはこれでいろんなチャンスもあるだろう。これからたくさんの経験を積み、新たな戦力となっていくのだろう。新入社員はいわば真っ白なキャンバスだ。その会社の社風なり、大切にしている価値観をこれから学んでいくことになる。ところが、中途採用の場合はそのようにはいかない。中途採用の場合はある程度即戦力として期待できる反面、価値観や社風などはすでに身に染み付いてしまっている部分もあるからだ。どちらがいいのかは募集するポジションの特性であったり会社としての考え方であったりするので、一概にどうとはいえないが、中途採用に求める「経験」というものは、ポジティブにもネガティブにも捉えることができるのである。では経験とはいったいなんなんだろうか?
- わたしたちは同じ経験をすれば同じように学習すると思いがちなところがあるが、同じ経験をしても学ぶ人は学ぶが、そうでない人もいる。これはなんの違いなのだろうか?本当に経験だけが学習する要素なのだろうか?実際は経験以外の与える影響の方が学習にとっては大きいというようなことはないだろうか?
- このような疑問に対し、ある一つの考え方を提示してくれている書籍がある。その名も「学習する組織ーシステム思考で未来を創造する」(Peter M Senge,(1990),The Fifth Discipline,(ピーター・M・センゲ, 枝廣 淳子・小田 理一郎,・中小路 佳代子(訳),(2011))である。
「経験から学ぶ」という幻想
- 確かに人間にとってもっとも力強い学習は直接的な経験から得られる。赤ちゃんがハイハイを失敗しながら学習することや、食べていいものといけないものの分別、転んだりしながらも立ち上がって歩くことなども全ては経験からの学習と言えるだろう。つまり、ある行動をとり、その行動の結果を自らが体感し、また別の行動を取ることによって学習は進んでゆく。
- ところが、同著が問題提起しているのは、ある行動をとった時とその結果が分かるまでの間に膨大な時間がかかったり、遠い場所で結果が発生したりする場合は私たちはその結果を直接には経験できないことである。組織にとっての重要な意思決定を検討し実行した場合、多くのケースでは結果がこのような時間・空間を超えたところに生じるため、直接的な経験から学ぶことが不可能になる。
- このような場合、試行錯誤によって学習する機会は極めて限定的になる。我々は経験から学ぶことを暗黙の前提にしているが、実際は極めて限定的な範囲でしか学習できないのだ。
- 次に、経験からの学習が強すぎて、却って誤った判断をしてしまうケースを考えてみよう。
過学習
- 「羹に懲りて膾を吹く」という諺がある。これは一度の失敗に懲りてしまって、必要以上に用心をしてしまうことを表す。過去の失敗例などをずっとひきずったまま、チャレンジができなくなってしまった人はこの例えに該当する。過去の失敗から必要以上に「学び」を得てしまい、それ以降その強化された「学び」のせいで行動が取れなくなってしまったのだ。
- 機械学習の分野では、このような状態を「過学習」と呼ぶ。機械学習では、大量の訓練データを用いてモデルに学習させることによって、現実のデータを使ったタスクをうまくこなせるようにする。この時、訓練データのばらつきにあまりに適合させようとすると、モデルも複雑な数式になってしまう。ざっくり見ると放物線のように見えるようなデータ分布になっている場合、モデルを2次関数にするよりも8次関数など複雑な形状をもつ関数で近似した方が訓練データのばらつきにはよくフィットするケースがある。しかしあまりに訓練データに近づけすぎると、実際に現場で訓練データ以外のデータに対してこのモデルを使った場合、誤差が大きく出てしまうことがある。これが過学習である。つまり、訓練データ以外のデータにも当てはまるような、汎化性能が高いモデル化ができていないということだ。
経験から学ぶ難しさ
- 以上見てきたように、経験から学ぶことは時には難しく、時には学習し過ぎてしまうこともある。ただ経験しただけでは多くを学べない、また多くを学ぼうとしても過学習となってしまう。経験から学ぶということはこのバランスをうまくとりながら進む道なのだろう。