広告業界に激震を与えたAppleの広告規制
- 米Apple社は4月27日、iOS14.5の配信をスタートさせると同時に従来から問題視されていたユーザー行動に関するデータの収集についてユーザー自身に許可を得なければならない仕組み(App Tracking Transparency, 略して”ATT”)を導入した。これにより広告配信目的でユーザーをトラッキングするための端末識別子であるIDFAにアプリがアクセスしようとするときには、ユーザーの許可を得るポップアップが表示され、そこでユーザーが許可するステップが必須となっている。これまでそのような許可は不要だったため、ユーザーは様々なアプリから行動をトラッキングされては広告事業者へ情報が売られ、別のアプリを開いた時に知られるはずがないと思っていた自分の興味が広告として表示されるというような不快な経験を余儀なくされていた。
- 流れが変わったのはもともとプライバシーに敏感なヨーロッパにおいて、GDPR(General Data Protection Regulation)がEU加盟諸国にノルウェー、アイスランド、リヒテンシュタインの3カ国を加えた欧州経済領域(EEA)において2018年に施行されたタイミングだった。GDPRの下では上述のようなシチュエーションで問題となっているいわゆる3rd Party Cookieも規制対象となる。
- そもそもCookieとは、Webサーバ側からクライアントのブラウザへ渡す小さなデータである。CookieがあることでWebブラウザはログイン状態を保持したりショッピングカートの中身を維持したりすることができる。3rd Party Cookieは表示中のWebページ自体ではなく、そこに付随する広告など第三者のドメインが発行するCookieだ。広告主はこの3rd Party Cookieを基に、Webサイトをまたぐユーザー行動を追跡し、相手を選んで広告を表示することができる。
- こうした仕組みを野放しにすることによるプライバシーの侵害が問題となり、ヨーロッパでは企業などが個人情報を得るには本人の同意を得ることが必須となり、データをEEA域外に持ち出すことも原則禁止となった。
- こうした動きは次第に広まり、インターネット広告で大半の収益を稼いでいるGoogleもWebブラウザ「Chrome」における3rd Party Cookieのサポートを、2023年半ばから後半までの3カ月で段階的に廃止する見込みであることを発表した。
- web広告の歴史はここ20年近くの出来事であり(そもそもGoogleが創業したのが1998年である)、利便性を軸として人間社会に深く浸透するプロセスでマイナス面が着目され始め、徐々に規制がかかるという流れは例えば自動車の排気ガスの規制や安全面での規制、交通ルールの規制などを考えてみても同様の流れに沿った動きである。人間社会は混沌とした状態から絶えず秩序へと向かっているようだ。
- そこで、今回は広く「秩序」を検討してみたい。
ルールによる秩序
- 秩序化といわれて何をイメージするだろうか。すぐに思いつくのは、上述のように規制やルールによる秩序化である。ルールは何も明文化されている必要はなく、非公式や暗黙のうちに集団で了承された事項も含まれるだろう。上記で述べた3rd Party Cookieの無節操な利用によるプライバシー侵害を防ぐための規制もこの一種である。もしこのルールがなければ、プライバシーの侵害を無視したアプリの個人情報収集に嫌気が指したユーザーが、スマートフォンの使用を控えようという運動を起こすかもしれない。これはアプリの業界やスマートフォンの業界にとっては大きな不安定性になる。そこで、Appleは自主的にルールを作ることにより、無節操な個人情報の利用に歯止めをかけることで業界に生じる不安定性の要因を未然に緩和しにいったのだと思われる。広告業者は大きな打撃を受けるものの、スマートフォンを中心としたAppleの生態系は維持できる。
- この他にも秩序化の例はある。順にみていこう。
「虚構」がもたらす秩序〜貨幣制度
- 意外かもしれないが、「虚構」が秩序を生むという構造が人間社会にはある。虚構といえば、平たく言えば「ウソ」のようなものである。実際は存在ないものをあると言ったりするような、事実ではないことを事実らしく作り上げることをいう。例えば、物語やドラマなどは現実にあることのように振る舞っているが、すべて「作り物」であり、それが虚構であることは作る側と見る側との間で暗黙の合意がある。少し前に問題となったフェイクニュースは虚構ではあるが、見る側に内容が本当であるかのように見せようとする意図があり、この部分が物語やドラマとは異なる。また、少し視点を変えてみると「貨幣制度」も虚構の一種だ。
- 言うまでもないことだが、貨幣制度はあまりにも現代社会に浸透しているため、その存在はもはや空気のように意識されずに前提として私達は日々貨幣を用いてものを交換している。しかし、もとを正せば貨幣制度といっても少し前までは兌換紙幣といって、所有者はいつでもその紙幣と金貨を交換することが保証されている時代があった。つまり、金によってその紙幣の価値が保証されている時期があったのだ。ただし現在はもはやそのような兌換紙幣よりも不換紙幣、つまりその価値が金貨などの実在する物質の価値に担保されない紙幣が主に流通している。要はただの紙切れということだ。
- 私達はほとんど何も気にせずに使っているが、紙幣そのものには価値がなく、その紙幣に価値があるものと集団でみなしている。これは立派な虚構と言えないだろうか。しかし貨幣制度は人間社会の経済活動を支えている大前提でもある。なくなると物々交換の時代に戻ってしまい、現在の経済活動を維持することはもはや不可能だ。
- ユヴァル・ノア・ハラリは、「想像上の秩序」という概念を用いてこのような現象を説明する。現実には、客観的事実と主観的事実以外に「第3の現実」というものがあり、それは共同主観的なレベルであるという。共同主観的なものは、個々の人間が信じていることや感じていることによるのではなく、大勢の人の間のコミュニケーションに依存しているというのだ(Yuval Noah Harari, 2016 柴田, 2016)*1。ハラリによると、第3の現実は人々の間で信じられているうちは強大な力を持つが、それがなにかのきっかけで突然信頼を失うと一瞬で消え去ってしまうことがある。例えば旧ソ連が当てはまるといいう。旧ソ連はかつてアメリカと世界を2分するほどの強大な大国であったが、社会主義という理念は結局行き詰まりを迎え、ソ連はもう終わりにするという書面にサインをした瞬間に消滅してしまった。
- 逆に言えば、これほど簡単に崩れてしまうものであったとしても、いったん人々の間で受け入れられるとそれは現実に人々の行動パターンを規定し、一定の秩序を形成しうるということである。そこで、虚構が秩序をもたらしている点についてより心理学的な側面から眺めてみよう。
虚構がもたらす秩序〜「責任」
- 例えば、Aさんが怒りに任せてBさんを刃物で刺し、Bさんは死んでしまったとしよう。死因は刺傷による出血多量だった。Aさんは当然罪に問われる。怒りに任せて刃物を突きつけ、そのまま勢い余って刺してしまったのだから。当たり前すぎる話ではあるが、Aさんが罪に問われるのはなぜか?近代刑法理論の根本原理として採用されている「責任主義」は、行為者に対する責任非難ができない場合には刑罰を科すべきではないとする。「責任なければ刑罰なし」と言われる所以である。
- では、行為者に責任があるというのはどういう場合だろうか?結果が生じたのはある行為が原因としてあり、その行為を行った人物(行為者)には自由に行動できる意志がその時に存在していたときだろう。他の行動を選ぶこともできたはずだが、意志を持ってその行為を選んだのだから、意志の存在がその行為の原因であるとされ、ゆえに責任があるというふうに論理が展開される。
- では、自由な意志の存在は本当なのだろうか?こちらで考察したとおり、行為が自由意志によって生じるとする説は脳科学的には否定されている。行為の原因として意志が位置付けられるのであれば、AさんがBさんを殺害する意志があった場合は必ずAさんはBさんに刃物で襲いかかるという行為が発生しなければならない。意志はあったが実はBさんは高度な護身術を体得していることを知っていたAさんは思いとどまった、ということであればそもそもそれは意志ではなく単なる願望である。では、意志と願望を分けるものはなにか?というと、それは実際に行為として現れたかどうかという点にしかない。社会心理学者である小坂井敏晶氏は次のように述べている。
意志は個人の心理状態でもなければ、脳や身体あるいは外部空間のどこかに位置づけられる実体でもない。意志とは、ある身体運動を出来事ではなく、行為だとする判断そのものです。人間存在のあり方を理解する形式が意志と呼ばれるのです。(小坂井, 2008)*2
- 身体運動を「行為」とみなし、その背後に「意志」があるはずだとみなすその「ものの見方」に意味があるのであり、行為の原因としての意志はあくまで虚構にすぎないのだ。ではそのような「ものの見方」にはどういう意味があるのだろうか?小坂井敏晶氏は続けて下記のように指摘している。
近代的道徳観や刑法理念においては、自由意志の下になされた行為だから、それに対して責任を負うと考えられているが、この出発点にすでに大きな誤りがある。実は自由と責任の関係に関して論理が逆立ちしている。自由だから責任が発生するのではない。逆に我々は責任者を見つけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言するのである。言い換えるならば自由は責任のための必要条件ではなく逆に、因果論的な発想で責任概念を定立する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない。(小坂井, 2008)
- 「責任」は、社会秩序を維持するための装置にすぎず、実体のない虚構であるからこそ人間社会でうまく機能していると言えるのではないだろうか。
- では次に人間社会を離れ、自然現象に目を向けてみよう。
自然は無秩序に向かっている
- そもそもこの自然界は、一度変わるともとに戻らない性質で満ち溢れている。コップに入ったホットコーヒーをコップごと床に落としてしまうと、コーヒーはあちこちに飛び散り、コップは割れて四方八方に散乱してしまって、決して落とす前の状態に戻ることはない。また、コーヒーを飲まずにそのまま置いておいた場合であっても、熱かったコーヒーはやがて冷めてしまい、室温まで温度は下がっていく。冷めたコーヒーが自然にもとの温かいコーヒーに戻ることは決してありえない。当初は整理整頓されていた部屋の中も、人間が使うことによって散乱し、決して自然に使用前の状態に戻ることはない。自然界で起こる現象は常に一方向であり、整った状態から乱雑な、散らかった状態へと不可逆的に移行していくのみである。
- 自発的な変化の方向がこのように秩序から無秩序へと一方向的にしか変化しないことを「エントロピー増大の法則」という。エントロピーとは大雑把に言えば、乱雑さの程度を表す物理量である。温かいコーヒーが冷めていく過程では、当初コップの中で激しく運動する水分子(コーヒーの成分はほぼ水である)が相対的に温度の低い(=あまり活発には運動していない)空気中の分子(O2,N2など)と何度も衝突する。時間の経過とともに何度も衝突を繰り返したコップの中の水分子はやがてその勢いを無くし、運動レベルが低下する(=温度が下がる)。一方コップに入ったコーヒーの表面近くの空気分子は当初激しく水分子とぶつかり、大きなエネルギーを持つがそれもやがて空気中の他の分子とぶつかり合って次第に勢いを落としていく。このようにして分子の運動エネルギーは空気中に散逸していくが、このとき、コーヒーと部屋の中全体で見ると、分子が散乱したぶんだけエントロピーは増大しているのである。
- エントロピー増大則はこの自然がひたすら無秩序に向かっていることを連想させるが、一方で自然は生命体のような極めて複雑な機構を持った有機体を次々と生み出しているのも事実だ。生命体は一つの秩序だったシステムである。無秩序に向かう自然の中でこのような秩序が生まれてくるのはどうしてなのだろうか?
自己組織化による秩序の形成
- 自然の過程は無秩序へと向かっているが、実は秩序を生み出す構造も存在している。それが自己組織化といわれる現象である。自己組織化とは、個々の要素が必ずしも全体を見渡す能力があるわけではないものの、互いに何らかの相互作用を及ぼし合うことで、自律的に秩序をもつ構造を作り出すことをいう。自己組織化は自然の至るところに見られる。例えば雪の結晶化や木星に存在する大赤班、地球内部のマントル対流などは自然が作り出した秩序である。そこに人間の手による加工や操作は存在しない。
- 生命体も自己組織化と深く関わっている。米国の理論生物学者であるスチュアート・カウフマンは、化学反応系において非常に多くの反応が触媒作用を受け、その多様性がある閾値を超えると、自分自身の形成に対して触媒の機能を持つ分子のクラスターが突如として生成されるという。このクラスターは自己維持的であり、自身の複製を生成させることができる。そしてこうしたクラスターの発生は何も莫大な試行錯誤の結果偶然生まれるようなものではなく、一定の要件を満たせば非常に高い確率で発生しうるという(Stuart Kauffman , 1995 米沢他, 2008)*3 。生命は自然が何億年もかけて試行錯誤した結果偶然生まれたものではなく、もともと自然には自発的に秩序を形成する性質があり、その性質こそが生命を生み出したと考えられるのだ。
- 自発的な秩序形成について、また別の例としてホタルの同期現象を見てみよう。ホタルの同期現象とは、発光の明滅のタイミングをその場にいる大勢のホタルが一斉に合わせるという現象で、古くから科学者たちにそのメカニズムが研究されてきた現象である。あらゆる種類のホタルが同期現象を示すというわけではなく、ホタルの中でも東南アジアにそのようなホタルが多く生息しているらしい。無数のホタルが一斉に明滅を規則正しく繰り返している様は想像しただけでも神秘的である。そこに指揮者のような役割を持つホタルがいるわけでもなく、ただホタルは自身の体内にあるリズムを自然に他のホタルたちと同調させているにすぎないのだが、発光させている時間と点滅の間隔は見事なまでにピタリと一致しているらしい。なんとも不思議な現象である。日本の物理学者、蔵本由紀氏はこうした同期現象が発生するメカニズムとして、水分子が温度の低下に伴い徐々に分子レベルでの塊を生成し、ある温度を下回った瞬間に一斉に凝固する相転移との類比として捉えることができると指摘している(蔵本, 2014)*4
秩序の本質
- 私たちは秩序というものが、人間が作り上げたもののように考えてはいないだろうか。あるいは、人間にとって意味のある状態を秩序と呼び、自然が見せる自己組織化のようなダイナミックな規則性の生成にはあまり関心を持ってはいないようにも思える。一体人間にとって、秩序とはどういうものなのだろうか。
- 秩序の本質は、自然に備わっている同期現象ではあるまいか。ルールによる秩序は、「ルールを守らなければならない」と人間が思い込むことによって達成される。周りの人間が皆ルールを守っているのをみて、自分だけルールからはみ出そうとする人間は少ない。これはいわば、ルールを守るという意識の同期現象だ。また、虚構による秩序は、皆がこうだと思っているその対象に実態がないわけだから、まさに同期現象そのものでしかない。
- あるマクロ的・大域的現象が秩序を持っているように見えるとき、その現象のミクロな構成要素の間には同期現象が働いている。秩序は人為的に生み出されているかのように思えるが、実のところ自然がもっている相互作用の結果が自己組織化に繋がり、マクロ的な一つの秩序となっていると見たほうがよいのかもしれない。
- ここで、熱力学がエントロピー増大則を導き出したことを考えてみよう。もともと熱力学は18世紀から19世紀にかけて産業革命下にあったヨーロッパで発展した。この時代に発明された蒸気機関の効率性を上げるための実用的な学問だったのだ。物理学上で扱うエントロピーの一般的な記号であるSは、フランスの物理学者で蒸気機関の最大効率について研究していたサディ・カルノーの頭文字から取られている。この時代は人間にとって「エネルギー」の重要性が飛躍的に増した時代であり、自然の状態はエネルギーとして利用しやすい状態とそうでない状態とに明確に区分されることとなった。石油などの化石燃料として保存された物質は空気中でよく燃えるため、水蒸気を発生させてタービンを回せば石油に含まれるエネルギーを電力に変えて利用することができる。一方で空気中に熱として逃げてしまったエネルギーは、散逸してしまって利用ができない。こうして人間から見たエネルギーの行方は一方通行となり、常にエントロピーが低い状態から高い状態へと増大していくのみであるという熱力学の第2法則が唱えられることとなった。エントロピーが増大するということは、人間にとってエネルギーが回収不能な状態になっていくという意味なのだ。
- 「秩序」と呼ばれる状態が先に存在しているのではなく、自然が生み出す同期現象のうち、人間にとって意味のある状態を人間が「秩序」と呼ぶようになったのだろう。
*1 Harari, Yuval Noah (2016), Homo Deus: A Brief History of Tomorrow (ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之[訳](2018). 『ホモ・デウス:テクノロジーとサピエンスの未来』 河出書房新社)
*2 小坂井敏晶 (2008), 『責任という虚構』, 東京大学出版会
*3 Stuart Kauffman (1995), At Home in the Universe: The Search for Laws of Self-organization and Complexity (スチュアート・カウフマン 米沢富美子 [監訳](2008). 『自己組織化と進化の論理 宇宙を貫く複雑系の法則』 ちくま学芸文庫)
*4 蔵本由紀(2014), 『非線形科学 同期する世界』, 集英社新書