アイデアの相対性
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- つづいて、何かが「アイデア」としてひらめいた時のことを考えてみよう。アイデアの発想方法は幾多の書籍が存在する。基本的なアイデア本と言える「アイデアのヒント」(ジャック・フォスター,CCCメディアハウス, 2003)では、アイデアを生み出すことの心理的ハードルを下げる心構えや、アイデアが生まれやすくなる日常習慣や、ものの見方を変えてみる発想法などが紹介されている。アイデアに関する書籍にはこのような内容が語られていることが多いというのが筆者の感想だ。
- そこで前提として置かれているのは、アイデアは「ひらめく」ものであるという扱いが物語っているように、ある日突然舞い降りてくるようなもの、自分でアイデアを思いつくことをコントロールすることは難しく、あくまでアイデアが思いつきやすい環境下に自分を置くことしかできないというようなアイデア発想の神秘性である。アイデア本の著者は自らが広告代理店などで有名なクリエイティブ・ディレクターだったという肩書きが珍しくないためか、アイデアの神秘性と結びつけられて「一般人にはなかなか及ばないもの」としてアイデアの発想が捉えられている。アイデア本には必ずといっていいほどハードルを下げるような内容が記述されているはこうした前提への対応なのだろう。
- このようにアイデアというものは極めて主観的な体験に基づくものである以上、自分が思いついたアイデアが万人にとっても同様の価値を持つかどうかは全く別個の話である。筆者自身、毎朝のシェービングの時間にアイデアが舞い降りてくることが多いのだが、それを急いでメモをした翌日にもう一度そのメモを眺めてみると、「果たしてメモするほどの内容か?」というものが少なくない。思いついた瞬間はハッとするのだが、落ち着いて考えるとテンションが下がってしまっているせいかそれほどでもないという感覚は誰でも経験があるのではないだろうか。自分でさえそうなのだから、他人からするとありふれた話にしか聞こえないものだ、と考えておいた方がいいだろう。
スキーマの功罪
- ではなぜそのような残念な感じになってしまうのだろうか?それには「スキーマ」という概念が関連しているのではないだろうか。私たちは日常的に生じている出来事を理解するために、ある一定の「型」を用いて理解している。これから野球をしようという場合は「野球の型」を用いてルールや勝ち方、戦術などを無意識のうちに思い起こしている。誰かが野球をしようと言い出した時、最低18人必要だということはいちいち口に出さない。野球のスキーマに18人必要ということがあらかじめセットされているのが通常だからだ。また、映画を見ると場面の説明はほとんどないまま、見ればわかるだろうという前提で作成されていることが多い。お葬式のシーンは黒い服を着た人が集まって悲しい顔をしていれば説明がなくても大体想像がつく。しかしそのような習慣がない外国人がそのシーンを見ても何のことか分からないだろう。
- このようにものごとを理解するための一定の型のことを認知心理学では「スキーマ」と呼ぶ。スキーマがあるおかげで、私たちはいちいち日常生活で一からものごとを理解する必要がなくなる。レストランに行くと「外食のスキーマ」が発動し、中に入って椅子に座り、注文して食べてから会計をするという流れは自動的に脳内に呼び起こされ、そのスキーマに従って行動している。いちいちこのレストランは食事より支払いが先か、あるいは立ったまま食事をして会計の時は座るのか、などと確認をとっているのではスムーズに日常生活を過ごせない。ある分野のものごとに慣れてくるということは、スキーマで理解できるものごとが増加し、その分野はスキーマ経由でおおよそ動けるようになったということなのだ。
- スキーマはこのように日常生活の行間を埋めるものとして私たちになくてはならないものである一方で、スキーマの作用が強くなりすぎると逆に私たちの思考を縛ることになる。スキーマはいわば「脳のショートカット」なのだ。必要な時だけショートカットができると都合がいいのだが、人間の脳は怠けるようにできているのか、いったんショートカットができるとできるだけそちらの回路を経由させようという慣性が働くようである。これが俗に言う「思い込み」につながる。ある分野の経験を多く積めば積むほど、既存の問題解決は素早くなるが、過去の経験では解決できないような問題に直面しても、決まりきったことしか考えられなくなってしまう。いわゆる「頭が固くなる」状態になってしまうのだ。頭が固くなった分、他人からみれば普通に思いつくようなことでも自分が思いつくのは難しくなってしまう。こうしてアイデアは自分にとって「ひらめかなければ出てこないもの」となってしまうのだ。
触媒としてのアイデア
- こうしてアイデアは思いついた人によって過大評価されてしまう。では本当にアイデアは単なる思い込みで課題評価して終わるものなのか?決してそうではない。アイデアはいわば、「(それを思いついた)個人によって過大評価された未検証の仮説」なのだ。アイデアはそれを試し、そのアイデアによって解決したかった課題にフィットするかどうかで価値の有無が決まる。
- またそのアイデアは、哲学を持った人間にひらめかれた場合、大きな価値を持つことがある。例えば、「ニュービジネス活眼塾」(大前研一, プレジデント社, 2005)にはウォルト・ディズニー氏がフロリダに2つめのディズニーランドの建設を決めた時の話が挙げられている。この話はウォルト・ディズニーがロサンゼルス郊外のアナハイムに最初のディズニーランドを建設して成功したのち、アメリカ東海岸にもディズニーランドを建設したいと候補地を探していた時、フロリダのワニしか住んでいない湿地帯を見て「ここだ!」と感じ、そこに未来都市構想と合わせたディズニーワールドを作る構想を思いついたとという話だ。ただ、当時その構想を聞いた人はほとんどが「この人は気は確かか」というような顔をしていたらしい。ワニしかいない湿地帯を見てそんなものを想像できる人はウォルト・ディズニー以外にはいなかっただろう。ただウォルト・ディズニーは子供が遊んでいる側で退屈そうに大人が見守っている姿を見ているうちに、大人も子供も楽しめるテーマパークが未来のコミュニティの姿になるはずだ、という独自の哲学を持っていたそうだ。しかしその哲学はウォルト・ディズニーの構想を聞いた人には前提として共有されていなかったため、アイデア単独で見てしまったがためにその構想力の凄さに気がつかなかったのかもしれない。
- アイデアというものはそれ単独で見ても、実現可能性が高いのか低いのかわからず、妙に思いついた人にとって価値の高いものにみなされていたりで要するに実行しなければ何の価値もないものである。よくビジネスの現場で「ジャストアイデアですが〜、、」という枕詞をつけてリスクヘッジをしながら自分のアイデアを話し出す人がいるが、大抵の場合そのような枕詞で添えられた「ジャストアイデア」はつまらないものである。それはアイデアというものがアイデア単体で見ても価値がないからだろう。
- アイデアが価値を持つのは、哲学を持った人と結びついた時、大きな構想力となってそれが実現への大きなパワーとなり、実行段階のさまざまな障害を乗り越える力になるケースや、その実現可能性について検証された時である。検証されたアイデアは単なるアイデアではなくなり、実現すべき目標となる。このようにアイデアは触媒のように哲学や実現可能性と結びつき、大きな価値を産み出すのだ。玉ねぎという野菜はそれ単独では独特の臭気もありなかなか食べづらいが、肉料理やサラダ、スープなど実に多様な料理にとって欠かすことのできない一品だ。アイデアも同じようなものなのではないだろうか。