一般的な歴史の捉え方
- わたしたちが歴史というものを考える時、よく思いつくのはいつどのような「事件」が起き、それが契機となって世の中や社会が動き、新しい統治システムへ移行していく、、そんなイメージがないだろうか。「いい国作ろう鎌倉幕府」などはその典型だ。土地制度と土地を武力で守る武士との間でそれまでの貴族社会が齟齬をきたしはじめていた平安時代の末期、東国の武士団の棟梁となりつつあった源頼朝が武士たちによる武士のための権利保護を求めて朝廷から一定の権利を認めさせた。それが鎌倉幕府というものの当初の性質だと考えられる。歴史教科書などを見ると、貴族社会から武家社会の到来へのターニングポイントとして源平の争乱を舞台にダイナミックな社会の変化がそこに描かれている。
- 確かにそういう側面はあるのかもしれないが、歴史のものの見方は一つではない。教科書的な歴史のものの見方は大きなターニングポイントとなった数年間の事件のいきさつと、その事件の登場人物が詳細に語られる。
フェルナン・ブローデルの歴史の捉え方
- これに対し20世紀にフランス歴史学界で大きな影響力を持ったアナール学派は、これまでの歴史に対するものの見方として大きな事件や出来事、それに関わる特定の著名な歴史上の人物の説明に注力しすぎている点を指摘し、その時代の人々が無自覚的に営んでいる日常の様々な生活習慣や社会慣習、文化といった「長期的に持続するもの」が歴史の底流に存在しているという主張を行なった。
- その中心的人物がフェルナン・ブローデルである。フェルナン・ブローデルは歴史の流れを短期持続、中期持続、長期持続の3階層に分類した。それぞれ簡単に内容を見ておこう「歴史入門」( フェルナン・ブローデル, 中央公論新社, 2009)。
- 短期持続 – 一回限りの歴史的事実すなわち「事件」のこと
- 中期持続 – 時々刻々と動きながらも一定の周期を示す「複合状況」。何らかの歴史的事件を成り立たせる状況の複合
- 長期持続 – 事件や複合状況の深部にあって、ほとんど動かない「構造」
- 従来の歴史が追いかけていたのは主に「短期持続」だろう。ところが、ブローデルの考え方によるとまず「長期持続」の波があり、それが何らかの形で「中期持続」の持続の仕方に影響を与え、それらが契機となって「短期持続」が現れるという流れがまず基本的にあるということだろう。
- ブローデルは著書「物質文明・経済・資本主義ー15-18世紀」(フェルナン・ブローデル, みすず書房,1985)において、最も長い長期持続の波を「物質生活」と定義した。これは日常生活で習慣となったほとんど無意識的な行為によって織りなされる生活であり、無限に繰り返され続けたこれらの行為は我々の日常を助け、また同時に精神生活を規定し、閉じ込めるものだという。生産活動に関して言えば、前提としている素材やそれを活かした技術の内容もまたこの物質生活に含まれる。
- ブローデルは産業革命を例に挙げ、いくら技術革命が起こったとしても、そう簡単にイギリスが経験したような形で長期にわたる経済成長を果たすことは困難であると述べる。技術革新が起こったとしてもそれを受け入れる十分な規模の市場がなければ成長はそこで停止してしまう。また、受け入れる市場が存在したとしても需要の爆発的な成長に追いつくだけの資本や労働力の投下がなければ供給側が追いつかず、そこで成長は止まる。イギリスの産業革命がうまくいったのは、イギリスという当時の国家の有利な立ち位置やロンドンという都市国家ではない(これまでの資本主義的な中心地はベネチア、アントワープ、ジェノバ、アムステルダムなどの都市国家が中心となっていた)国民国家の都市として成長できたことが影響していると分析している。つまり、長期間「変わらないもの」としての物質生活から出る毛織物などの必要性を国民国家の枠組みの中で資本と労働をうまく一つの方向に向けさせ続けられたという長期持続の土台の上に、当時の様々なファクター(これらは中期持続の波に相当すると思われる)が相互作用し、産業革命が成立したと考えたのである。こうして短期の波に属する産業革命が今度は物質生活のあり方をも規定し、長期持続のあり方に逆に影響を与えるような相互作用として産業革命は説明される。
変わらないものへのまなざし
- 変わらないものに着目することによって、逆に変わるものの性質も明らかにされる。位相空間論では変換によって変わらないものの性質を考察することにより、関数の連続性が集合を用いた普遍的な形で整理された。変換により破れたり折り重なったりしてしまう性質は、連続性が途絶えるイメージと合致する。ただし、そのようなイメージを厳密な数学の世界で表現するためには集合論を用いた非常に抽象的な概念をベースとする必要が生じてしまった。応用範囲が広い分、抽象的になってしまったのである。
- また、変わらないものと変わるものとが併存しながら重層的に相互作用を及ぼし合うというブローデルの歴史観に見られるように、変わらないものへのまなざしは波の相互作用のような、複雑系への扉の入り口に我々をいざなっているかのようだ。実際、先にあげた「物質文明・経済・資本主義ー15-18世紀」は全6冊にも及ぶ大作で、4世紀にわたる世界経済の歴史が短期・中期・長期的持続という時間的観念に加えて物質生活・市場経済・資本主義の3空間がそれぞれ相互作用する全体像として描かれており、非常に複雑な様相を呈している。日常の非常に細やかな物質生活の描写の数に圧倒される全6冊のうちの1,2冊め(「日常性の構造」という副題が付いている)からスタートしているあたりもハードルが非常に高くなってしまっている。
- 人間の基本的な性質でもあるパターン認識の射程を頭の限界を超えて成し遂げようとしているかのようだ。位相空間論は我々が認識しやすい1次元〜3次元での話にとどまらず、一般的な次元数を前提にしている。また、ブローデルの歴史観は出来事に注目してしまう我々の短い寿命を前提にした生き方に逆らったものの見方が求められる。その結果、位相空間論もブローデルの著書も完全な理解が難しいものとして我々の前に立ちはだかっているのである。変わらないものへのまなざしを持ち続けるということは、それなりの覚悟が求められるということだろう。