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生命 社会心理学

鶏が先か卵が先か

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  • 鶏が先か卵が先かという話を聞いたことがある人は多いだろう.よく議論をしているときなどに「それは鶏が先か卵が先かの問題ですね」などと言われる.営業と製造で受注を増やさないと良い製品は作れないという生産サイドの見解と、生産ミスをなくしてもらわないと受注は増やせない、というような意見が飛び交っていることがある.こういう時が使い時で、こちらを立てればあちらが立たず、というような場面がピッタリくるような感じだ.
  • ではこの言葉を真面目に考えてみるとどういうことになるだろうか?鶏が先か卵が先かという事態は、因果関係がループしてしまってどちらかが先だとは言えなくなっている状況だ.ではどうすればどちらが先か分かるか?
  • この問題は、生命の起源はいつどこで発生したのか、という問いに帰着する.生命の起源は現在も研究が続けられているが、そのうち広く科学者に受け入れられている仮説を見てみよう.

生命のスープ

  • 「量子力学で生命の謎を解く」(ジム・アル=カリーリ、ジョンジョー・マクファデン, SBクリエイティブ, 2015)によると、進化論を唱えたチャールズ・ダーウィンは、生命の誕生に関する仮説として「温かい小さな池」の中で最初の生命が誕生したのではないかと提唱した.それを受けたロシア人のオパーリンとイギリス人のホールデンによってそれぞれ独自に提唱されのが「オパーリン=ホールデン仮説」と呼ばれる生命誕生の仮説である.この説によると、初期の地球の大気には水素やメタン、水蒸気が豊富に含まれており、それに稲妻や太陽放射、火山の熱などが作用して単純な有機化合物の混合物が生成したという.そしてそれらの化合物が原始の海に蓄積し、暖かく希薄な有機化合物のスープが何百万年も水中を漂った末に泥火山のような場所の上に流れてきた.さらに偶然にもそれらの化合物が結合し、やがて自己複製能力という並外れた性質を持つ新たな分子ができたという.
  • つまり、鶏が先か卵が先かの話を遡っていくと、生命のスープに辿り着く.そこにはもはや鶏も卵も出てこない.「鶏が先か卵が先か」という問いは、 ...→鶏→卵→鶏→卵→鶏→...と続くループに対して、「鶏→卵」「卵→鶏」のどちらを先に区切るかという切り方の問題に過ぎなかったのだ.「この鶏ー卵ループの起源は何か」という順番を遡った最初の地点こそが意味を持つのであって、ループを切断した一部分を見てどちらが先かを問うということ自体がナンセンスだったのだ.では、なぜこのようなナンセンスな問いが膠着した議論の場でたびたび現れるのだろうか?
  • このカラクリを知るには、さらに別の分野を覗いてみる必要がありそうだ。

責任の所在

  • ある犯罪行為を犯した時、犯罪者は自らの行為の責任を問われる.これは当たり前の話だが、よくその中身を見てみると、一つの疑問が湧いてくる.
  • ある人物がその行為の責任をとるということは、その人物の行為によってある望ましくない結果が起こったと認定されることが必要である.その認定の際の前提として、その時その人物がとった行為以外にも何らかの別の行為ができたということが要請される.これは自由意志の問題であり、その時その人物が外的な要因や不可抗力等により他に行為する余地が全くなかったのであれば、自ら原因となる行為を取り除くことは不可能であり、責任を負う前提を欠くからである.
  • つまり責任を負うべき主体には自由意志の存在が要請されるのである.ところがそのような自由意志の存在は否定される.「責任という虚構」(小坂井敏晶, 東京大学出版会, 2008)によると、自由と責任との関係について以下のように述べられている.
  • 結局、自由とは因果律に縛られない状態ではなく、自分の望む通りに行動できるという感覚であり、強制力を感じないという意味に他ならない。強制されていると主観的に感じるか否かが自由と不自由とを分つ基準であり、他の要因によって行為が決定されるかどうかという客観的事実は、自由かどうかの判断とは別の問題だ。我々は常に外界から影響を受けながら判断し行動する。しかし条件の違いによって、自分で決めたと感じる場合もあれば、強制されたと感じる場合もある。主観的感覚が自由という言葉の内容なのである。
  • 責任の正体に迫るためには、自由に関する我々の常識をまず改めなければならない。近代的道徳感や刑法理念においては、自由意志の下になされた行為だから、それに対して責任を負うと考えられているが、この出発点にすでに大きな誤りがある。実は自由と責任の関係に関して論理が逆立ちしている。自由だから責任が発生するのではない。逆に我々は責任者を見つけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言するのである。言い換えるならば自由は責任のための必要条件ではなく逆に、因果論的な発想で責任概念を定立する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない。
  • ある結果の責任を純粋な因果論に求めると、その結果の原因を構成するある人物の行為の原因としてその意志が存在し、またその意志を生み出した家庭環境や育ってきた背景、またそのDNAを作り出した両親、そしてまたその両親、、、と原因から無限に後退してしまうことになり、原因をある人物に特定することはできなくなってしまう.しかしそれでは人間社会の秩序が維持できない.こうした矛盾を起こさないために、責任という根拠のない概念を持ち出して因果律の無限ループを遮断する必要があったのだと考えられる.

鶏が先か卵が先か問題再考

  • これまでの話をまとめてみよう.鶏が先か卵が先かという問題は、繰り返される鶏と卵のループのうち、一部分を切断するやり方は「鶏→卵」「卵→鶏」のどちらも可能であり、切り取った部分だけを見てどちらが先かを判断することはできない、という意味合いなのであった.しかしその問題自体は生命の起源に遡ることができる問題であり、そこには「生命のスープ」があったという仮説が存在している.
  • また、責任という概念が持ち出されるのは因果論によって事件の責任を定立しようとする結果、無限ループに陥ることの矛盾を解消するために社会が要請する虚構なのであった.
  • つまり、無限ループを遮断するためには論理を根拠としない何らかの「虚構」が必要なのであり、「鶏が先か卵が先か」という何の意味もない発言もこの「虚構」の一部をなしているのではなかろうか.営業が先に売ってこないからだ、いやいや生産がきちんとミスなく作れないからだ、という水掛け論の現場で「それは鶏が先か卵が先かの問題でしょう」と発言する場合、発言者の意図は「そんな話をいつまでも続けても仕方がない」であるはずである.つまり無限に続く水掛け論のループを遮断するためである.その発言の内容自体には上述のように意味がないが、それを聞いた人は「もっと根本の問題に立ち返らなければ」と考えるかもしれない.生命のスープはどこにあるのかということである.

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