CVCによる東芝の買収提案
- 4月7日、東芝が英国に拠点を置く投資ファンド、「CVCキャピタル・パートナーズ」から買収・非公開化の提案を受けていたことが明らかになった。
- 買収価格は1株あたり5,000円で、この価格は買収提案の発表があった4月6日の終値3,830円からすると約30%高い水準だった。翌日、株価はストップ高となる4,530円となり、4月14日現在で終値は4,860円となっている。
- なぜCVCは株価より30%も高い金額を提案したのか?それは一般的にCVCが提示したTOB価格には、支配権プレミアムが乗っているからだと言われている。CVCの提案は時価総額2兆円ほどの東芝の全ての株を集めて最終的に非公開化することであり、それはすなわち現在の東芝の株主から株を買い集め、議決権の大半を握ることになる。株式会社の議決権は過半数を握れば株主総会の決議を単独で通すことができるため、支配権が生じるものとみなされる(さらに2/3超を握るとほぼなんでも決議可能になる)。モノを買うときは一般的にたくさん買うと安くなるが、株の場合は大量に集めるとボリュームディスカウントではなくプレミアムがつくのである。
- TOB発表後の東芝株の動きはこうしたプレミアム価格の提示に押し上げられたものと推測される。しかし、そもそも本当の株価とはいくらなのだろうか?株式相場で見る株価は先述のようにその時の情勢を反映して上下動しているため、これをもって本当の株価と見なすには少々ノイズが混ざり過ぎている。そこで、株価と相関を持ちそうな何らかのその企業の指標と株価の関連性を見ることで、株価のおおよそ妥当な水準が測られている。
- その代表的なものとして知られているのがPER(株価収益率)、PBR(株価純資産倍率)だ。PERは株価がその会社の一定期間における1株あたり利益の何倍かという指標であり、PBRは株価がその会社のある一時点における1株あたりの純資産(純資産=総資産ー総負債)の何倍かという指標である。それぞれ、株主にとって意味のある会社の価値と株価との関連付けになっている。1年間で賞味どれだけ業績を上げて利益が残ったのか、というフローを表す指標(当期純利益)と、期末時点で正味財産がどの程度残高として残っているのか(株主資本)というストックを表す指標のそれぞれで株価との関係をみたものだ。
- PERとPBRは上場している全ての企業で過去から継続的に算定できる。そしてその結果を分析すると、業種や業態によって一定の特徴があるものの、概ねPERなら15倍〜20倍、PBRなら1.0〜2.0というような「値頃感」が市場参加者の間で形成されてきている(もっとも、GAFAや米国Teslaなどこうした指標では説明がつかないほどの高値がついている企業もたくさん存在している。あくまで一つの目安程度でしかない)。さまざまな理由で短期的に上下どうする株価を見ていたのではその動きが理解しにくいため、こうした指標が一つの「尺度」となっているのだ。
- この辺りで一度「価値」とはいったいなんなのだろうか。よく似た概念である「価格」とは異なるのだろうか?
「価値」とは何なのか
- 例えば今ランチでカツ丼を1,200円払って食べたとしよう。カツ丼を食べながらその支払った対価と見合うかどうか、思わず考えてしまう人も多いのではないだろうか。この味でこの値段なら高いとか、1,200円払う価値のある美味しさだとか、人によって感じ方は色々だろう。このとき、実際にカツ丼を食べるために支払った金額そのものは「価格」であり、同じメニューを頼む限り誰にとっても支払額は変わらない。
- 一方で、その支払った対価の感じ方は人によって異なる。それはその人がこれまで1,200円で食べてきた色々なものとの比較であったり、行きつけのカツ丼屋の値段とボリュームとの比較かもしれない。いずれにせよ、何らかの基準となるモノサシを他から持ってきて、それを使って「1,200円支払って食べたカツ丼の価値」を測定していると考えられる。その結果、「このカツ丼の味とボリュームなら980円が妥当だ」と判断したのならば、この人にとってのこのカツ丼の「価値」は980円、「価格」が1,200円ということになり、「お得な取引ではなかった」ということになる。つまり不満の残るランチだったということになる。
- このように、価値と価格は概念が異なるため、両者は常に一致しているとは限らず、乖離が生じうるものなのだ。
- では、私たちは価値をどのようにして測定しているのだろうか。そこに何らかの一般的な測定方法が存在しているのだろうか。
価値の測定方法
- 先述のカツ丼の例では、980円という「価値」を導き出したある人の例を挙げた。このとき、980円を導出したのは「他で食べたカツ丼の味とボリュームと金額」を使い、それを目の前のカツ丼に適用した結果導出されたものだ。単純化すると、「他との比較」になる。私たちは何らかのものの価値を比較する場合、こうした比較を用いていることが多い。あるアパレルブランドの8,000円のTシャツを買うかどうか迷っているとき、「これならユニクロで1,900円で買えるな」とか、そういう感じである。
- この他あり得るとすれば、カツ丼を作るのにかかった費用を考えるアプローチもある。例えば東京都心で1,200円のカツ丼を食べた場合など、原価として600円程度が原材料費や人件費代とみて、場所代が200円〜300円くらいだろうとか想定しながら価値を測るわけである。都心なので同じカツ丼1,200円でも場所代の比率が高いから、実際は1,000円相当のカツ丼と同じモノが出てきているはずだろうとか、そういう感じである。
- また、カツ丼を食べる事により得られる嬉しさや満足感といった「効用」を基準にして、その効用が得られるならば1,200円は安い、と感じるかどうかというような基準も考えられる。これらはそれぞれ「他と比較する」「コストを見積もる」「将来の便益を測る」というアプローチである。これらのアプローチは実際に株式価値の算定実務でも用いられている。それぞれ以下のような対応関係を想定している。
- 「他と比較する」→マルチプル法
- 「コストを見積もる」→時価純資産法
- 「将来の便益を測る」→DCF法
- それぞれの方法の詳細は割愛するが(長くなるので機会があれば他で説明する)、価値を測定するための切り口として上記の3視点は割と一般的なアプローチである。
唯一絶対の価値を定めることはできない
- さて、なんとなく価値のイメージは分かったように思うが、ここで1点だけ重要なポイントがあるとすれば、誰の目から見ても同じ価値になるような「唯一絶対の価値」というものは存在しない、ということだ。もしそういうものがあるならば、市場が十分に適正な働きをしていればいつか株価はその水準に近づいていくはずである。しかし各々が自由に物差しを使って測っているため、それらがある1点に収束することはない。
- これは先ほどまで見てきたように、価値というものが極めて主観的な体験を通じて形成されるからである。ただ、100円で売られているものの価値が人によっては1円の価値しかないとか、100億円の価値があるとか、極端に大きく外れることは少ない。あくまでこのモノであればおおよそ80円〜120円くらいだよね、というようなマーケットを形成する買い手がおおよそ共有するであろうぼんやりとした価格帯として「価値」は存在している。
- そして「価格」は、取引前には様々な人が様々な価格帯をイメージしている中、一つの具体的に実現した取引として「現れる」。これは原子核の周りに電子が確率的に存在しているという「電子の雲」が、測定という行為を通してその位置を具体的に表すという関係に似ている。
- 電子の運動では、位置と運動量を同時に決定することはできない。これは不確定性原理と言われ、「電子はおおよそこの辺りにいる可能性が高い」という確率密度関数で表されるようなぼんやりとした位置しかわからない。同様に、人がそれぞれ独自に価値を見積もっている何らかの対象があったとして、その価値はいくらですかと言われてもおおよそこれくらい、というようなぼんやりとした範囲でしかわからない。そして実際に取引をしたときに一意にその金額が「価格」として決まるのだ。
- こうして考えてみると、冒頭で見た東芝の株価の動きというものは、市場参加者のそれぞれが思っている「東芝の価値」が、リアルタイムで取引価格として実現しつづけていくその時間発展を描き出したものだと理解できるだろう。市場参加者の思惑はそれぞれリアルタイムに決まってゆく株価の周りを確率の雲で覆っているのだ。それが次々と取引により「測定」され、価格がその瞬間に一意に決定する。株価が動くのはこうした市場参加者が各々感じている「価値」が確率の雲になっているからであり、決してあらかじめ予測することはできないのである。