センスとは何なのか?
- 今日はセンスというものについて考えてみたい。誰しも、「この人はセンスがあるな」と感じたことはあるのではないだろうか。それがファッションセンスだったり、サッカーのパスセンスだったり、絵が上手いとか、ビジネスの場面においても交渉センスがあるとか、まあ色々なところでセンスが輝いてるのをみて、羨ましく思ったりするものだ。
- そこでまずセンスという曖昧な概念の中身に迫った「センスは知識から始まる」(水野学, 朝日新聞出版, 2014)を見てみよう。
- 同書によると、センスとは決して数字で測ることができないものであり、センスが良いということは数値化できない物事の良し悪しを判断し、最適化する能力だという。そしてそれは決して才能がある人にだけ先天的に与えられたものではなく、プラクティカルに鍛えることによって誰でも身につけることが可能だ、と述べられている。
- しかし多くの人はセンスをその個人と結びつけ、先天的に与えられたものだと認識する。センスを感じるきっかけとなるなんらかのアウトプットに直面した時、そのアウトプットを産み出す過程のうち理由がはっきりしていない部分を「センス」という概念で一括りにしてしまっているのではないだろうか。つまり、下記のような定式化ができるのではないだろうか。
- アウトプット ー プラクティカルな部分 = センス
- プラクティカルな部分とは、アウトプットを産み出した要因のうち、なんらかの訓練やメソッドにより予測可能な(=理由がはっきりしている)部分という意味である。
- 同著が言うようにプラクティカルな部分でほぼ説明できるのであれば、上式の左辺はほぼ0になる。センスという概念に寄せられる部分は世の中で言われているほど大きくはなく、むしろほとんどプラクティカルな方法論により説明可能だということだ。つまり、世の中で言われる多くの「センス」は、ある特定の人のアウトプットを見た人によってその人に「見出される」ものなのだ。
- 簡単に言ってしまうと「錯覚」のようなもの、ということだろうか。しかし、この錯覚もバカにすることはできない。我々が引き算によって埋められるべき何者かの存在をある対象に見出すとき、それは時には大発見にもつながるからだ。
中間子存在の予言
- ここで話を科学の世界に移してみよう。日本人初のノーベル賞受賞者は誰か。湯川秀樹博士である。物理学に興味のない人も名前を聞いたことはあるだろう。湯川秀樹は1949年、陽子と中性子との間に作用する核力を媒介するものとして中間子の存在を予想したことの功績が認められ、ノーベル物理学賞を受賞した。終戦直後に日本人から初のノーベル賞受賞者が出たことは、敗戦のショックからまだ抜けきれていない日本人のメンタリティに大きな勇気を与えたことだろう。
- 中間子論が発表された1930年代は、世の中を構成する最小単位(素粒子)として、陽子、中性子、電子、ニュートリノの存在が知られていた。陽子はプラスの電荷を帯びていて、中性子は電荷は0、そして陽子と中性子がくっついたものとして原子核があり、その周囲にマイナスの電荷を帯びた電子が存在しているというのが当時の原子のモデル的な説明だった。ところが、ここには未解明の大きな謎が含まれていた。プラスの電荷を帯びている陽子同士がなぜくっついていられるのか、ということだ。
- 本来ならば電気反発力によりお互いは遠ざかる方向の力を受けるはずが、くっついていられるのは何故か。これは何らかの「核力」のような未知の「力」が陽子と中性子に働いており、その力が電気反発力を大きく上回るために陽子はくっついていられると考えられていた。そして、素粒子の間に働く力には何らかの媒体となる粒子が存在していることも分かっていた。
- そこで核力を媒介する何らかの粒子が存在するはずだ、ということを理論化したのが湯川秀樹だった。湯川はその粒子を中間子と名づけ、電子の約200倍の質量を持つことを理論的に予測し、後年その理論に当てはまる粒子(π中間子)が発見された。
- このような発見のプロセスを俯瞰すると、まず中性子と陽子とが(陽子の)電気斥力を超えて結合するという純然たる事実があった。しかし、その力を媒介する粒子が存在するかどうかは未知だった。その溝を湯川博士は理論によって埋めることが可能であるとして、そこに中間子の存在を見出した。そして後年、実際にそれは存在することが立証された。このようなプロセスは、あるアウトプットとそれを説明する理論との間に説明しきれない溝があり、その溝は「合理的な想像」によって埋められたと言えるだろう。
- 上記のセンスの方程式風に定式化すると、下記のようなものになるだろう。
- アウトプット ー 理論によりすでに説明可能な部分 = 合理的な予測
- センスのところで見た式と見比べてみると、右辺の「合理的な予測部分」は「センス」と読み替えてみてもおかしくなさそうだ。
- 次に、少しフィールドを変えて企業経営の場に足を踏み入れ、戦略的思考について述べられた「企業参謀」(大前研一, プレジデント社, 1999)を見てみよう。
企業戦略立案のプロセス
- 「企業参謀」によると、戦略的思考とは一見したところ渾然一体となっていたり、常識というパッケージに包まれてしまっていたりする事象を分析し、ものの本質に基づいてバラバラにしたうえでそれぞれのもつ意味合いを自分にとって最も有利なように組み立てた上で構成に転じるやり方である、とされている。このような思考は冷徹な分析と人間の経験や勘、思考力を最も有効にくみあわせた思考形態だという。
- ステップに分けると下記のようになるのではないだろうか。
- 事象の分析(論理的プロセス)
- 分析された各パーツの意味合いの抽出(論理的プロセス)
- 再統合化(直感的・非線形的プロセス)
- つまり、戦略的思考とはインプットとロジックによって複雑な事象をとき解き、それらを自分の目的に沿うように再統合化させるプロセスということになる。決して論理的なプロセスのみで企業戦略を描くことはできず、論理的プロセスを経た結果得られた目の前の現象への理解から、自分にとって意味のある構造を創り出すという創造的プロセスが必要になると言っているのだ。
- こうして出来上がり、うまくいく戦略を実行して結果を出している企業の経営者は褒め称えられることになる。後になってその戦略を第三者が分析してみたとしても、決して同じ結論は出てこないだろう。なぜなら、戦略策定プロセスの最後には新しい構造を創り出すという極めて主観的なプロセスが入っているからである。
- これをまたセンスの方程式風に表してみると、下記のようになるのではないだろうか。
- アウトプット(戦略) = 分析結果の集合 + 再統合化
- 右辺第1項を移項すると、
- アウトプット(戦略) ー 分析結果の集合 = 再統合化
- となる。これを最初のセンスの方程式と比べると、右辺の再統合化がセンスに該当するものと読める。
まとめ〜センスとは何なのか?
- 以上見てきたように、センスというものはあるアウトプットから何らかの説明可能要素を取り除いた結果残った、ブラックボックスのようなものなのだろう。水野氏はそのようなものはない、と言いたげであるかのようにも思えるが、本人の認識はともかく周囲から見出されるものとして「センス」があるという風に考えることができないだろうか。
- 実際、2つ目の湯川博士の例では、「合理的な予測」部分は湯川博士の頭の中で行われたものだ。また、3つ目の企業戦略の例でも「再統合化」は戦略立案した人の頭の中で起こっていることである。ところがそのプロセスは第三者から見て、説明がつかない。なぜなら第三者と共有できるのは「論理」に基づく部分のみだからである。そのため、第三者がアウトプットを見た時に論理だけでは説明仕切れない部分が残ってしまい、それはもう説明不能な残差としての「センス」としてしか表現できないのだ。
- つまり、「センス」とはあるアウトプットを産み出した本人に宿っているのではなく(水野氏の主張の通り)、人々が貨幣に価値を見出すように、人々がその人に「見出す」ものとして、一種の社会現象のように振る舞うのである。