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弁証法

笑の大学に見た弁証法的世界観

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笑の大学とは?

  • 笑の大学という映画をご存知だろうか。三谷幸喜原作・脚本の言論統制下にあった戦時中の日本における演劇作家と台本の検閲官とのやりとり描いたものだ。演劇作家の椿一は笑の大学という演劇の台本について警察の検閲を受けるのだが、笑いに全く理解がない検閲官の向坂睦男は椿一の台本から笑いの要素を極力無くそうとする訂正を要求する。ところがなんとしてでも上映に漕ぎつけたい椿一はいったん向坂の要求を受け入れるものの、さらに笑いが生まれるような台本を考えつくのであった。そして訂正された台本をまた向坂の元へ検閲に出し、向坂はまた笑いの要素を消すような訂正を命じ、、、というプロセスが何度も続く。そうこうしているうちに台本の内容がどんどんブラッシュアップされ、向坂も椿一も台本の修正に夢中になっていってしまうというのが大まかなストーリーである。
  • この映画で特徴的なのは、終始「やりとり」が繰り返され続けるという点だろう。ただし、そのやりとりは単なるやりとりではない。椿一は毎回のように向坂の出してきた要求をさらに超えるような発想で台本をブラッシュアップし続ける。まるで、自分一人だけでは越えられない壁を向坂に否定されたことを利用して超えていくようなものになっているのである。
  • そのあり方は、まるで弁証法の発展過程そのもののように見えるのだ。そこで、次に弁証法について考えてみよう。

弁証法とは?

  • 弁証法という言葉をご存知だろうか。あまり日常生活には関わりが薄い言葉なので、何やら小難しいディベートのテクニックのようなイメージを持つ人もいるかもしれない(「弁」という文字がそのイメージを造り出している)。といっても、では弁証法とはこういうものです、という説明がしにくいものであることもまた事実だろう。弁証法という言葉は用いられる人によって実に多様な捉えられ方をしているのが実際であり、歴史的にはソクラテスやアリストテレス、プラトン、カント、ヘーゲル、マルクスなどそれこそ古代ギリシア哲学から近現代まで長い歴史の中で用いられてきた言葉である。
  • そこで今回は弁証法と聞いて最も多くの人がイメージするであろうヘーゲルの弁証法について紹介してみたい。
  • ヘーゲルは、「万物は流転する」という有名なヘラクライトスの哲学を根本に据え、いかなるものも自分自身の中に必然的に含まれる矛盾もしくは自己否定によって自分自身ではないところの他者になりうる、と考えた。人間を想定して考えると自分自身は絶対に正しいということはあり得ず、必ずどこかに矛盾を抱えているわけだから、他者によってその矛盾を指摘されるか、自分自身でその矛盾を自己否定することは必然である。そしてその矛盾がある限り自分自身は自分ではない他者になってしまう。ところが自分自身はやはり自分のままであるため、どこかでその他者をまた否定して、自分自身を取り戻すというような「否定の否定」によって自分自身に還ってくるような動きこそが真理であるとヘーゲルは考えた。
  • このようにして到達した自分自身が一つの「止揚」であり「アウフヘーベン」と呼ばれるものだ。否定の否定を通して到達した自己は、それ以前の自己とは異なり、内容が単純なものから複雑性をましたものへと「向上」している。そしていったん向上した自分自身も永遠ではあり得ず、また別の矛盾や自己否定を通じてまた自分自身へと戻ってくるプロセスが続く。ヘーゲルの考える弁証法とは、上記のような工程をへて真理へと向かい続ける道だと理解できるだろう。

弁証法と笑の大学

  • さて、では笑の大学にみられる弁証法の発展過程について考えてみよう。
  • まず椿一は海外を舞台とした喜劇を向坂に持っていくが、海外を舞台としたものは認められないとして突っぱねられる。そこで椿一は国内の物語をベースとした喜劇に内容を変えて再度検閲に臨む。ところが今度は「お国のために」という言葉を3回入れろと無茶な注文をされてしまう。
  • これで諦めるだろうと向坂も思っていたところ、椿一はまた検閲に現れた。今度は主人公の名前などを変更し、なんとか「お国のために」という言葉を3回入れ込んできたのだ。肝心の内容についても、以前のものよりもさらに洗練されていた。
  • 物語の顛末は是非とも本作の方で確認していただきたいのだが、こういうやりとりが何度も繰り返され、どんどん内容がブラッシュアップされていく様はまるで弁証法の否定、さらにその否定から新たな自己へ、そしてまたそれが否定され、、、というプロセスさながらである。
  • 弁証法という考え方を知っていることの利点は、他人から否定された時にそれをポジティブなものとして捉えられることにあるのではないだろうか。大抵の人は否定されると気持ちが落ち込むだろう。ところが椿一は全く諦めないばかりか前よりも研ぎ澄まされた喜劇を編み出してしまった。一人ではとてもそこまではできないだろう。自分で自分を否定し続けるというのは限界があるからだ。
  • 笑の大学は、まさにそういう場面に何度も遭遇しながらポジティブに乗り越えていこうとする主人公の姿を通して弁証法の意味を学べる作品と言えるのではないだろうか。

 

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