ダイソーが新業態店舗オープン
- 100円ショップを全国で手掛けている大創産業が3月26日、渋谷マークシティ1F(東京都渋谷区)で同社にとって新業態となる「Standard Products」オープンした。価格帯は300円〜1000円(税別)で、これまで同社が手掛けてきた100円ショップ「DAISO」(国内3,493店舗、海外2,248店舗)や、300円ショップ「THREEPY」(国内41店舗、海外3店舗)とはコンセプトを別にし、無駄のないシンプルなデザインに品質、機能性にこだわったアイテム作りで広く老若男女をターゲットにしている。
新型コロナ禍で家計貯蓄が世界的に増加
- Bloombergによると、新型コロナウイルス対策として各国がロックダウンに入ってからの貯蓄の増加額は全世界で2.9兆ドルにのぼるという。これは日本円にすると315兆円近くの金額であり、イギリスやフランス1国のGDPに匹敵する規模だ。日本も例外ではない。日本銀行が3月17日に公表した2020年10月〜12月の資金循環統計(速報)によると、2020年12月末時点でいわゆる「タンス預金」が初めて100兆円の大台を超えた。タンス預金を含む家計の金融資産の残高を見ても前年同月比2.9%増加となる1,948兆円となり2四半期連続で過去最高を更新している。
- そもそも外出の機会がない、使うところがないということもあって世界各国で家計や企業に資金が積み上がっている状況だ。
- 家計や企業がコロナ禍でいつも以上に積み上げてきた資金は、コロナ禍によって強制的にブレーキがかけられた経済成長の摩擦熱というか、マグマのようなものと考えられる。これがどのような形で市場に「出回る」のだろうか。先述のダイソーの試みも、コロナ禍で厚くなった手元現金と「おうち時間」の充実といった新たな消費動向を掴み取ろうとするものだと考えられる。それはこれまで同社が手がけてきた「DAISO」などの100円ショップではうまく消費喚起できないということなのかもしれないし、100円ショップという業態自体の目新しさがなくなり、新たな差別化への道を模索していたところにコロナ禍が降りかかり、一気に話が進むことになったのかもしれない。いずれにせよ、同社はここで消費者の新しいニーズを掴み取ろうと差別化戦略に出たと考えられる。
- そこで、次にビジネスにおける差別化戦略について考えてみよう。
ビジネスにおける差別化
- ビジネスにおいて差別化というキーワードを作り出したのは、かのマイケル・E・ポーター教授と言っていいだろう。彼は著書「競争の戦略」(M.E.ポーター,1980)において企業間の競争戦略には3つの類型があると論じた。その中の1つが「差別化戦略」である。差別化戦略とは、特定商品・特定サービスにおける市場を同質とみなし、競合他社の商品と比較して機能やサービス面において差異を創り出すことにより、他社との競争において自社が優位に立とうとする戦略である。
- 先述の大創産業による「Standard Products」の試みは、100円ショップや300円ショップという既に存在しているマーケットの消費者心理がコロナ禍により変化したタイミングでその動きを捉えようとしたものと考えると、差別化戦略というよりは市場細分化戦略と言った方が違和感は少ないだろう。他方で同じようなコンセプトとして既に無印良品がプレーヤーとしているため、無印良品と比べた場合は差別化戦略というカラーの方が強いかもしれない。
- ビジネスにおいて競争相手に勝つためには差別化戦略の考え方は重要である。認知する人間側にたって考えると、既存のサービスと同じような部分が含まれているが、何かがその既存サービスとは異なっており、そのことからくる支払額の差異についても納得して支払っているという状態を創り出すことである。
- つまり差別化戦略の要諦は人間の認知システムに働きかけることによって「差別された状態をいかに創り出すか」であり、差異の創造にベクトルが向いている。
- では、差異を検知する私たち人間にとって、差別化はどういうものなのだろうか。
人は差別する生き物だ
- 企業間の競争では差別化が戦略上重要なファクターになるということは、逆に言えば何もしなければ差別化されないということでもある。わざわざ差別「化」と言っているのは、そのためだ。ところが一方で、私たち人間の習性として「差別」は切っても切れない関係にある。
- 古来より人間は「身分」という概念を作り出し、支配階級のトップに君臨する者、その側近、その部下、そして被支配階級というように細かく上限関係を制度として作り出してきた。奴隷制やカースト制度、封建制度など、歴史を見ればそれは明らかである。フランス革命が一つの大きなターニングポイントになるまで、古代〜中世まで身分社会は良く機能し、社会には一定の秩序がもたらされていたと言えるだろう。
- 近代になって個人の平等が叫ばれるようになってからも、差別をする人間の姿は変わっていない。社会制度として身分差別が存在していた頃は、君主と平民とはあまりにも差異が大きすぎたため、そもそもその差別は平民側も受け入れてしまっており、大きな問題となることはなかった。ところが、個人の平等や民主主義が叫ばれ始めると、これまでは暗黙の前提としてあったような身分の差がなくなっていくことになる。個人はみな対等であり、生まれついての上下関係などないのであれば、本来は皆平等な生活をしているはずである。ところがそうはなっていない。そのような現実は受け入れ難い。なぜなら身分差という理由が消えて無くなったからだ。あるのは個人の責任や能力の差、ということになってしまう。
- 社会の前提が身分制社会だった時、人間は平等を求めた。ところが、平等な社会を前提にした社会において、人は差別を求めるのだ。差別化のベクトルは、近づくほど大きくなる斥力のように、近しい人との間では大きくなる。人間は人間を差別するが、猫を差別はしない。日本人が韓国を差別するのも、元は同じ民族だけあってよく似ているからだろう。
差別化のポイントはなんだろうか?
- 人間は差別をする生き物だ。それならば、いっそのこと差別させてあげればいいのではないだろうか。その際に重要なのは、自分と他人は違うという感覚だろう。ここに差別化の大きなポイントがある。ブランドで差別化できるのも、結局はそれを持っている自分が他人とは異なるからである。
- また、同質化も差別化のマグマが溜まったものとしてみなせば重要な要素になりそうだ。差別化とは斥力である。近いほど、同質であるほど潜在的な差別化の力は強いものとなる。